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執筆者の写真Simon Yoh

エマオでの晩餐



(2023.11.11)

復活されたイエスはエルサレムからエマオに向かって歩いていた二人の弟子に近づき、一緒に歩き始められた。イエスがこの数日中に起こった出来事と、聖書の中のメシアの受難と栄光について対比して説明されても、二人はその人ご自身がイエスだとは全く気が付かない。夕方になり、先を急ぐイエスを無理に引き留めて家にお泊めすることとし、夕食の席に着く。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった(ルカによる福音書24章30~31節)」


この箇所は物語性に富むため、「エマオの晩餐」という名でたくさんの絵がある。私もこの情景を思い浮かべることは楽しいのだが、こだわっていることがひとつある。

二人の弟子が、目の前にいる人がイエスであると確信した根拠は何だったのだろうか。

祈りの言葉やパンを裂く仕草が似ていることの他に、あまりの驚きと再会の嬉しさに涙を抑え切れなくする何かがあったのではないだろうか。


イエスは(この程度までの想像は許されると思うのだが)祈りの中で、二人がエルサレムを逃れてきたことやその心情について触れられ、父である神に赦しを請われたのではないだろうか。私は少なくとも二人の弟子たち以外にはイエスしかご存じない何かが、イエスの祈りの言葉の中にあったのではないかと思う。


〈木版画 エマオでの晩餐〉

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