2021.9.20
「放蕩息子のたとえ」で気づくことがある。
二人の兄弟がいて、弟が父親の財産を分けてもらい、遠い国に旅立った。そこで彼は放蕩の限りを尽くして財産を全て失くしてしまい、飢え死にしそうになった。困窮の果てに自分の犯した罪の深さを知り、故郷に帰って罪を償おうと思い立った。
《そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。》;ルカによる福音書15・20
さらりと読んでしまいがちだが、〈まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて・・・〉のところ。
父親は遠く離れている息子をなぜ見つけられたのだろうか。
毎日毎日外に出て、息子が帰ってくるかどうか遠くを見つめていたに違いない。たまたま外に出たら息子が来るのが見えた、と理解するのは不自然だ。文章にそんなニュアンスは無い。見つけたいという強い思いがなければ、遠くにいる息子を見つけられるはずがない。
ここで言う父親は天の父のこと。
天の父は毎日毎日、外に出て、憐れな息子が自分のもとに(信仰の道に)帰るのを今日か明日かと待っていた。
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