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  • 執筆者の写真Simon Yoh

いつの日にか

更新日:2023年11月7日


2021.10.16

わたしが銅版画の技術を習得し聖書からモチーフを得て絵を創作するようになってから、人の顔を、様々な表情を捉えて描くことが多くなりました。

なぜ飽きもせず人の顔ばかり描くのか。

長い間わたしは自分に問いかけていましたが、答えを見いだせず、考えても無駄と知ってから、考えるのをやめていたのです。

あれから30年近く、ようやくその答えが見いだせたように思います。

答えを見つけるまでの思考の過程も含めてここに記してみます。

・わたしが描く人の顔、もしくはポートレイトは圧倒的に女性が多く、男性は少ない

・女性であれば限りなく穏やかで慈しみに満ちた顔を追及していること

・そしてそれの行き着くところは聖母マリアであること

・男性であれば傷つき、苦悩に満ちていて、深い精神性が感じられる表情を有していること

・それはイエス・キリストを想定していること

つまりわたしは自分なりの「聖母マリア」と「イエス・キリスト」を念頭に置いて顔を描いているということに気が付いたのです。

「気が付いた」という表現はどことなく脚色じみたところがあってイヤですけど、本当です。

なぜわたしの頭のなかにいつも「聖母マリア」と「イエス・キリスト」がおられるのか。

聖母マリアは「今も、死を迎えるときも」祈ってくださる方であり、イエス・キリストは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と告げられた方だから。

そう思います。

わたしはお二人の存在を身近に感じたいし、いつの日にかお会いできることを願っているのは確かなことなのです。

だからわたしは人の顔を描くことに執着している、と言うか、そのことに何の抵抗も感じないのだろうと思います。

無心になれますから。

答えが見つかって、もうこれからはそれこそ"果てしなく"人の顔を描こうと思っています。

大げさですが、人の顔を描き続けることは「わたしが生きていることの証なのだ」と思えるようになりました。

文章の中で本来は「イエス・キリスト」「聖母マリア」の順で述べたかったのですが、描いてきた顔の数から順序を逆にせざるを得ませんでした。

しかし、いつの日にかお会いしたい思いはどちらが大きいとも言えません。

【銅版画 E08 希望のマリアⅡ】 

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