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執筆者の写真Simon Yoh

信仰の灯を消さないために


2021.9.25

コロナ禍の今、教会は閉鎖されている。

信徒にとってミサに与れないのはとてもつらいこと。

せめてミサが無くても聖堂でお祈りができるように、教会が開放されていたらと思う。

そうすれば誰でもが自由に教会を訪ね、祭壇の前で祈ることができる。

もちろん3蜜を避け、親hしい仲でも会話はできるだけ控えてのことだが。

理屈を言うようだが、信徒同士の交わりは我慢しなければならないが、お祈りを通じて神様の前で心を開く機会を持ちたいという思いを消してはいけないのではないだろうか。

「神様の前で」が「聖堂で」とは必ずしもならないけれども、祭壇の前に額づくことの意味は大きい。

しかし、そんなことを言ったら、各種エンターテインメントなどのイベントやスポーツ、コンサートなどをを楽しみたいと思う人たちはどうなの、と言われてしまうだろう。

結局「自己責任でやればいい」と言う理屈は通らないから、あらゆることが管理下に置かれることになる。

このコロナ禍でも、教会は開いていて欲しいとは思うけれども、それはやはり無理な注文だ。

一日も早くコロナ禍が終息するよう祈るしかない。

この状況でキリスト者がキリスト者であり続けること、つまり信仰の灯を絶やさないためにはどうすればいいのかを考えたとき、母教会の牧師から教えられた言葉を思い出す。

「信仰は植物と同じで、水を遣り肥料を遣やなければ枯れてしまう」

いま私はミサに与れなくても信仰の灯を絶やさないためにやるべきことをやらなければ。

【銅版画:主は答えてくださる D070】

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