2021.10.24
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12:24)
ここで述べられている「死」は生物学的な死ではない。
ミサの中で神父にこのことを教えられたのは、わたしが受洗してから既に長い年月が過ぎていた。
それまでわたしは一粒の麦の死を自分の死に重ねて捉えていた。
生物学的な死ではないと教えられた時、驚きにも似た感動があった。
わたしが仕事のこと、家族のことなどで思い悩んでいた頃ひたすら願ったのは、自分が生きた証を残すことだった。
それが「多くの実」につながるかもしれないというかすかな望みだった。
しかし「死」と「生きた証を残す」こととは無関係だっだ。
生きた証を追い求めていた頃、それは一体何なのか判然としなかった。
何の代償も求めずに自分が没頭できるもの。
唯一わたしが生きがいを見いだせるもの、それは版画、木版画や銅版画の制作だと気が付いた。
特に銅版画は生きた証になり得るかもしれないと考えたが、しかし苦しさはその小さな望みを打ち砕いてしまった。
心血を注いだ銅版画さえも生きた証にはならなかった。
自分の非力を思い知らされた。
銅版画がだめなら、何でもいい、何かしら永遠に朽ちることが無いものを創りたい。
それも叶わぬならば、永遠に滅びぬものを見つけるだけでもいい。
そう願った。
わたしは教会の門をたたき、キリストの教えを学んだ。
そしてついに見つけることができた。
わたしは永遠に滅びることが無いものを手に入れた。
それ以外にわたしが欲しいものは何もない。
一粒の麦の死はそれを意味することだった。
「人は皆、草のようで、
その華やかさはすべて、草の花のようだ。
草は枯れ、
花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(ペトロの手紙Ⅰ 1:24)
【銅版画 C042】
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